このブログについて

このサイトは私、丸山千夏が個人で運営するブログです。ざっと見渡して戴ければおわかりのとおり、大したことは書いていません。もともとは、もう少し個人的な内容で、日々の雑感などを書いて行こうと思って立ち上げたものなのですが、ご存知のように、一番最初の記事が拙著「ボランティアという病」に関連した「おりづる広島」に1億円の根拠をうかがいました。」になってしまった経緯から、ジャーナリストが読者の皆様にお詫びをするサイトだと思い込んでしまわれた方も多いようです。残念ながら違います。

雑感なのでニュース記事や、TwitterやFacebook、各種まとめサイトなどで目に入って来た話題も、取り上げたり取り上げなかったりします。そのへんは、特に規約を設けて自分で自分に縛られたいとは思っておりません。スポンサーは今のところまだ見つかっていませんので、サーバーのレンタル料などを含め、すべて自前で運営しております。「ちゃんと取材しろ」などとおっしゃられましても、手弁当で無料のブログ記事を書くために取材に出かけるほど私も気合いは入れてないです。それともあなたのお家の近くでは、八百屋がタダで野菜を配ってたりするんでしょうか。私の家の近所では、パン屋はパンをタダでは配っておりませんし、ジャーナリストは記事をタダでは配りません。ちゃんと取材費を出して戴ければ、ご期待以上のものはお返ししますのでいつでもご用命下さいませ^^

話が大幅にずれましたが、本来私が、真面目にきれいごとだけを書いていられるような人間ではないことは、このブログをご訪問下さった皆様にはすでにご承知おきのことと思います。あまり多くをご期待戴いた方には、とてもご満足戴けるものではございません。すみやかにお引き取りの上、二度とご覧戴かないことを強くお勧めしておきます。

たいへん勝手ながら、ブログへのコメントは基本的にご遠慮させて戴きます。筆者へのご意見、ご要望は、このブログのcontactフォームよりご連絡戴くか、TwitterのアカウントでどなたからもDMを戴けるように設定しております。そちらをご利用下さい。

拙著「ボランティアという病」のご意見、ご感想は、宝島社でも受け付けて戴いております。返事が欲しいと一言書き添えて戴ければ、可能な限りお返事も書かせて戴きます。

以上、よろしくお願いいたします。

丸山千夏

コンテンツとしての大川小問題

数日前のことになりますが、「世界のニュース・トトメス5世」と題するブログの中に、恐ろしいタイトルの記事が掲載されました。

タイトルは、「あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争」。東日本大震災で、全校児童78名中74名、校内にいた教職員11人中10名が命を落とすという前代未聞の悲劇に見舞われた大川小学校の、震災当日の出来事を扱った内容です。

参考のため、一部をご紹介しておきます。

広報車を運転した一人は少なくとも2回、大川小学校の前まで行って避難を呼びかけ、2回目には車を降りて教師らを説得しようとしたが、教師らは耳を傾けなかったという。

生徒を校庭に座らせたまま大川小学校の教員11名は2派に分裂して避難派と待機派に別れ、果てしない論争を繰り返していた。

大川小学校の100mほど裏には裏山と呼んでいた高台があり、そこに上って避難するべきだという意見が出された。

だが教師の一人と”自治会”あるいは保護者の一人が「山に登って生徒が転んで怪我をしたら、誰が責任を取るんだ」と強硬に反対して責任論を展開した。

このとき現場にいた教頭は最初裏山への避難に同意していたとされるが、強硬派を説得できずに議論を続けた。

ある子供は避難を呼びかける町内放送が聞こえていて、広報車が怒鳴っているのも何度も聞こえたので、数人の児童が裏山に駆け出して、一旦は避難したと証言した。

だが反対派の教師達は山の上まで子供たちを追いかけて引きずり下ろし、全員を校庭に集めて怒鳴りつけていた。

ある生徒は「ここに居たらみんなしぬんだよ!何で先生は分からないの」と泣きじゃくり、ほとんどの生徒が泣きながら怯えていたと証言しました
(略)
近所の人たちは皆裏山に上って助かったが、生徒らを裏山に上らせるよう提案しても、ことごとく教師に撥ね付けられたそうです。

「世界のニュース・トトメス5世」「あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争」

ご存知の通り、石巻市立大川小学校の悲劇については、一部の児童のご遺族たちが、石巻市と宮城県を相手取って損害賠償請求の民事訴訟を起こしており、去る10月26日に仙台地方裁判所から一審の判決が下されたばかりです。判決の中で、保護者側の主張を一部認め、14億円もの賠償金支払いが認められた、というニュースの直後に、災害当日の教師たちの言動がいかに横暴だったか、いかに子供たちが不条理な扱いによって死に追いやられたかを綴ったこのブログ記事は、大きな反響を呼びました。

特に、一度は裏山へ逃げた子供たちが、先生たちの手によって引きずり下ろされ、「ここにいたらみんな死ぬんだよ!」と泣きながら訴えていたというエピソードは、背筋が凍るようなショッキングな内容です。記事はたちまちSNSを通じて拡散され、これまで大川小について特に関心を持たなかった人々の間に、急速に広まって行きました。

「関心を持たなかった人々」と書いたのは、これまでこの事件に多少なりとも関心を持っていた人々の多くは、記事のタイトルを見ただけで、すぐに「おかしい」と気づいたからです。山に逃げた子供たちを教師らが引きずり下ろしたなどというエピソードは、これまでこの事件に関心を持って来た人々の誰一人として、耳にしたことのない話でした。この判決の要旨、ならびに大川小学校事故検証委員会による検証報告書、そしてこの事件を取材した池上正樹・加藤順子共著「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」(青志社刊, 2012年10月)、この本の元となったダイヤモンドオンラインの記事「大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~」、あるいはこの事件を扱った新聞各社のオンライン記事のどこにも、そんな話は書かれていません。

書かれたことがなかった=事実ではない、と証明するものではありませんが、本当にそんな証言があったのなら、これまで主に被害児童の遺族側に肩入れする立場で取材を続けて来たダイヤモンドオンラインや、池上正樹・加藤順子両氏が、一度も記事にしていない、というのは不自然です。

「世界のニュース・トトメス5世」というサイトがどのような人物によって運営されているのかは謎ですが、今回の「あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争」というエントリの中でも、大川小学校と間違えて大槌町の写真を掲載するなど、お世辞にも現地の事情に通じているわけではなさそうですし、他サイト掲載の写真を二次使用していることから考えて、報道機関の運営ではない、単なるアフィリエイト目当ての個人ブログと考えてよさそうです。こういったサイトでは、より衝撃的な、話題性の高い記事を載せてアクセス数を稼ぐことが重要であり、内容の信ぴょう性などにはほとんど関心がないと考えて良いでしょう。しかしこれほど話題になったわけですから、著者の目論見は成功していると言えます。

残念ながらこの記事が、「子供たちのために怒り、無能な教師たちに正義の鉄拳を下したい」と願う多くの人々の共感を呼んだのもまた事実で、「悪い大人と、しいたげられる子供」という構図は、それほどまでに人々の心を捉えやすい、ヒットコンテンツの黄金律なのでしょう。

実際に、あの日、大川小学校の校庭で何が起こったのか、第三者である私たちが知ることはほぼ不可能です。生き残った先生や、わずか4名の生徒さんたちの記憶も、時間とともに変化して行きます。しかし、「山に逃げた子供たちを、先生たちが追いかけて、山から引きずり下ろした」などという出来事が本当に起きていたなら、震災から今日までの間に必ず漏れ伝わって来たと思いますし、ずっと黙って隠し通して来た人物がついに重い口を開いたのだとしても、それを告げる相手は「世界のニュース・トトメス5世」の著者ではないはずです。

人々はわかりやすい悪役を欲しがります。正義を振りかざして糾弾するには、そういった相手が必要だからです。大人たちが保身や権力のために醜く争い、その結果、いたいけな子供たちが命を奪われたと考えれば、正義を主張し、口汚く批判することが出来ます。それは苦しさを胸に抱え込んだまま押し黙るよりは、爽快感を伴うものでしょう。つまり人々は、震災でも有数の悲劇である大川小の被害を材料にして、自分たちのストレスを発散しているのです。

これがつまり、災害をコンテンツとして消費するということです。見ず知らずの人々の身の上に実際に起きた悲劇を単純化し、悲しく、腹立たしい物語として再構築する。その上で、自分は正義の味方となり、悪役を批判することで、人々の鬱憤は晴らされます。裁判に勝利すれば、勝利の快感に酔いしれることもできるでしょう。しかし災害で子供さんやお身内の方を亡くされた当事者の皆さんには、快感などありません。

コンテンツとして眺めている限り、私たちはわかりやすい悪役を欲しがり、自分たちに勝利の快感をもたらしてくれる物語を欲します。たとえば「大川小学校の先生方が、裏山という誰が見ても安全な場所に子供たちを連れて行こうとせず、権力争いなどという愚行に時間を費やした挙句、自分たちも命を落とした」という物語は、人々に爽快感さえ与えてくれるはずです。「子供たちを助けようと必死で努力した先生方が、力及ばずに子供たちもろとも命を落としてしまった」という辛い物語は、誰ひとり爽快にはしてくれません。

私たちは誰しも、心のどこかで勧善懲悪主義のヒーロー物語を欲しているのかも知れません。それはもしかしたら、あまりにも辛い現実から、目を背けるための自衛の一種かも知れません。それによって傷つくのは、どこにも逃げる場所のない、そしてこれからもその記憶を胸に生きて行かなければならない、当事者の皆さんであることを、肝に銘じておく必要があると思います。

何が遺族たちを訴訟に向かわせたのか~大川小津波訴訟~

横断幕を手に仙台地裁に向かう原告団
東日本大震災の被害の中でも、全校児童78名中74名が犠牲となった石巻市立大川小学校の惨事は、多くの人々の心に衝撃を与えるものとなりました。この事件では、犠牲となった児童のうち23名の遺族が、市と県を相手取って損害賠償請求の民事訴訟を起こしていますが、今月26日、仙台地方裁判所は学校側の過失を認め、23名の遺族に合計14億3千万円の支払いを認めました。これに対し、市と県は判決を不服として控訴の方針を固めています。

ここまで読んで戴いて、「おや?」と思われた方もいらっしゃることでしょう。そうです。犠牲になった子供たち74名のうち、訴訟に加わったのはわずか23名の遺族のみ。犠牲者の2/3を超える51名の遺族たちは、マスコミとの接触も断り、じっと口をつぐんでおられるそうです。

訴訟に加わった1/3の遺族の皆さんが、犠牲になった子供たちの顔写真を並べた横断幕に、

「先生の言うことを聞いていたのに!!」

というスローガンを掲げて仙台地裁へと入って行く姿は、全国紙でも報道され、我々に大きな衝撃を与えました。遺族の皆さんは、あの日、子供たちを助けられなかった責任が教職員にあると考え、その責任を問うているのです。大川小の全教職員13人中、当日学校内にいたのは11人。その11人のうち1人を除く10人が、子供たちと一緒に津波の犠牲になりました。遺族の皆さんは、助かった1人を含む教職員11人が、(そのほとんどが亡くなっているにもかかわらず)子供たちを助けられなかった責任を負うべきだと主張しているのです。

ご存知の通り大川小では、「地震(津波)発生時の危機管理マニュアル」によって第1次避難場所は「校庭等」、第2次避難場所は「近隣の空き地・公園等」とあるのみで、具体的な避難先については記述がありませんでした。宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入るとされ、河口から5kmの内陸に位置する大川小学校までは、津波は到達しないと考えられていたのです。このため、大川小学校自体が避難場所として指定されており、実際に地震の後、近所の住民たちは大川小学校めざして避難して来たそうです。池上正樹さん、加藤順子さんによるルポ「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」(青志社刊, 2012年10月)にも、このとき校庭では焚火の用意が始まっていたという記述があり、大人たちは、この場所が避難場所であるという認識で行動していたことが窺われます。

仙台地裁による判決は、石巻市の広報車が津波を知らせた3時30分から、津波到達までの7分間に関して教職員の責任を認めるものでした。しかし、校庭に避難していた教職員たちが津波の危険を認識した3時30分に、あと何分の猶予があるのか、どうやって判断できたでしょう。津波が来るのは10分後かも知れませんが、1分後かも知れません。

11人の教職員だけで、78人の児童を避難させなければならないのです。高学年の児童なら、裏山を駆け上ることも出来たかも知れませんが、低学年の子供たちの中には、地震のショックで泣いている子や、吐いたり、しゃがみ込んでいる子もいたといいます。マニュアルも、訓練もないまま、わずか数分のうちにベストな行動を選択することは、危機管理の専門家でも難しかったのではないでしょうか。

外部の人間として、遺族の皆さんの1人1人が、この訴訟についてどのような考えを持っているかは、想像するしかありません。わかっていることは、同じ大川小学校の遺族の中に、この訴訟に加わらなかった遺族が2/3もいらっしゃるということです。この方々はマスコミに対して口を開いては下さいません。それがすべての答えなのではないかと私は感じます。

もちろん、この悲劇が繰り返されることのないよう、市や県には危機管理マニュアルの策定が求められることは言うまでもありません。しかし、訴訟を起こした一部の遺族にのみ、賠償金が支払われるという結果で本当に良いのでしょうか。そして、子供たちを助けようとして一緒に避難して命を落とされた先生方のご遺族は、この訴訟に加わることはできません。

「先生の言うことを聞いていたのに!!」

亡くなった子供たちは本当にそう思っているのでしょうか。

震災後、「リーディング・カウンセリング(Leading Counseling)」と称して、大川小の遺族の方々にカウンセリングを行ったボランティアがいるそうです。このボランティアが具体的にどのような「Leading(指導)」を行ったのかは、当事者にしかわかりません。このボランティア活動が、地域の連帯を揺るがしたり、遺族の自主性を阻むようなものであったとしたら、大変残念なことだと思います。

阿蘇市の「収穫祭」は本当に必要なのか

早いもので、熊本地震は今月14日で発生から半年を迎えました。遠く離れた私たちにとってはあっという間の半年間でしたが、被災地で暮らす皆さんにとっては、長い長い半年間であったに違いありません。観測史上初めて、震度7を2度記録した熊本地震に加え、6月には大雨による浸水や土砂災害にも見舞われ、8月からは度重なる台風、さらに今月に入ってからは阿蘇山中岳の噴火と、あらゆる災害に見舞われている熊本地方ですが、完成済みの仮設住宅は必要戸数の約9割に当たる4052戸。益城町や西原村など7市町村9カ所の避難所で、今も205名の皆さまが避難所生活を送られています。

最大で855カ所、18万3882人が避難所に身を寄せたそうですので、残り205名は大きな前進と言えそうですが、仮設住宅入居者に対するアンケート調査の結果によれば、6割以上が「いつ頃仮設を退出できるかの見通しは立っていない」と回答しているそうで、復興への道のりはいまだ手探り状態のようです。

そんな中、阿蘇市では「奇跡の1000人田植えの収穫祭」と称するイベントが10月16日(日)に予定されているようです。

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熊本地震において、阿蘇市が甚大な被害を受けたことは言うまでもありませんが、「1000人田植え」が決して熊本地震からの復興に貢献するものではなかったことは、拙著「ボランティアという病」でも取り上げさせて戴きました。地域にとって何が必要か、必要でないかは、外部からの支援者ではなく、その地域の人々が決めることです。そして、その地域の中にもいろいろな意見を持つ人がいる、その結果が地域の分断を招くのです。

このイベントに限らず、さまざまな支援活動について、「喜んでいる人いるのだから良いじゃないか」という意見をよく耳にします。地域の全員が喜んでいるのなら、何の問題もありません。ごく一部であれ、喜ばない人がいるという事実が、地域の人間関係を複雑にしてしまいます。「あの家は、ボランティアさんたちと仲良くして、うまくやっている」「自分の家は、ボランティアさんたちと仲良くしなかったせいで、いろいろと損をしている」──こうした不公平感が人々の心の中に鬱積し、ただでさえ被災度合いによって生じている様々な不公平に拍車をかけて行くことになるのです。

現地を歩いてみればわかりますが、ほんの狭い区画の中でも、全壊してしまった家があり、無傷で助かった家があり、災害というものは、地域の人々にとって決して公平なものではありません。その不条理の中で、人々は、なんとか力を合わせ、心をひとつにして復興に向けて取り組まなければならないのです。

外部の人々が企画する支援イベントが、地域の分断をより深刻なものにはしていないでしょうか。参加の動機は善意であっても、それが必ず役に立つとは限りません。

「奇跡の1000人田植えの収穫祭」に参加をご検討の皆さまには、その行動がもたらす結果を、今一度よくお考え戴くことを切に願っております。

熊本地震の支援物資が行き場なく庁舎に“山積み” (ANN NEWS)

10月5日のANNニュースで、熊本地震で福岡県が集めた支援物資が、受け入れ先のないまま庁舎に保管されているという話題が報じられました。保管されているのはJR博多駅から北へ30kmほど離れた場所にある福岡県直方市にある福岡県直方総合庁舎です。

品目としてはマスクが最も多く、その数18万枚。そのほか、栄養補助食品4,800個、トイレットペーパー5,000袋、紙おむつ4,000個など。1階にある元理容室には2リットル入りの飲料水が約1万本。すべて分別し、品目や個数を明記してきちんと管理してある点は、さすがお役所と言うべきでしょう。

担当者である福岡県福祉総務課の野田亮子さんの説明によれば、県としては要請に応じてすぐに物資が出せるように、待機中の状態とのこと。しかし、被災自治体からの物資の支援要請は5月の段階で途絶えており、それからすでに約半年が過ぎようとしています。

こうした問題は、過去のさまざまな災害でも何度も話題になって来ました。災害発生直後の緊迫した雰囲気と心理状態の中で、「必ず使うものだし」「足りないよりはマシ」「置いても腐るものでなし」などの決まり文句と同時に、物資を必要以上に集めてしまい、あとになって処分に困る様子を私たちは何度目にして来たことでしょう。

しかし、冷静になって考えてみれば、災害発生から3日間は各自治体の備蓄で賄い、その間に必要数をはじき出して県や国に支援を要請する、その仕組みさえきちんと確立されていれば、本来、民間からの「支援物資」は必要なくなるはずです。

東日本大震災で津波被害に遭われた地域のように、地域の小売業者のすべてが壊滅してしまったなら、こうした需要もあるでしょう。しかし、そうでなければ一般家庭から提供される物資に頼るより、地元のスーパーやドラッグストアの倉庫から提供してもらえるよう、あらかじめ取り決めをしておいた方が合理的です。業者提供の物資なら、余れば返品も可能ですから、こうして置き場所に困ることもありません。

日本は災害大国です。近い将来、どんな災害が、私たちの身近な場所で起きるかも知れません。そのときに、この反省がどうやって活かせるか。私たち一人ひとりが、当事者の自覚を持って改善策を考えて行く必要があると思います。

「おりづる広島」に1億円の根拠をうかがいました。

ボランティアという病(表紙)

ご承知の通り、拙著「ボランティアという病」(宝島新書)におきまして、内容の一部に重大な事実誤認があり、多方面にご迷惑をおかけしております。誠に申し訳ございません。

この問題に関しましては、「ねとらぼ」様にも取り上げていただきましたとおり、宝島社とも相談の上、重版分にて修正させて戴きたいと考えております。

問題となりましたのは、本書の第4章、143ページ1行目にある「広島市では毎年、平和記念公園に届けられる10トン分の千羽鶴の処分費として1億円の予算を計上している」との記述です。

この誤記載が発生した理由につきましては、ただもうひとえに私の検証不足と申し上げるしかありませんが、経緯をご説明するとするなら、「後で検証しよう」と思いながら草稿に載せておいたものが、他の対応に追われているうちに、そのまま校了まで未検証のまま残ってしまったという不手際によるものです。出版元である宝島社の皆さま、そして何よりも本書をご購入戴きました読者の皆さまに、多大なるご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます。

なお、「広島市で折り鶴の処分費用が年間1億円もかかっている」という情報がどのようにして発生したのか、という問題につきましては、既に各所で検証が行われていると思いますが、今回私なりに確認させて戴きたいと思い、情報元とされているNPO「おりづる広島」様に、経緯をお訊ねしてみました。

「おりづる広島」のホームページにある、問題の箇所というのは以下になります。

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赤線の部分に、それぞれ「年4回・1億円をかけて燃やされてしまう」「年4回焼却処分」「その費用として1億円の税金が使われていた」という記述が見られます。

「おりづる広島」に電話すると、船田和江理事長ご本人からお話を伺うことが出来ました。

ホームページのトップにある、「年4回・1億円をかけて焼却処分」という情報はいったい何を根拠にされているのでしょうか ───。

幸い、船田理事長は大変気さくな方で、突然の電話にもかかわらず、大変丁寧に対応して下さいました。実はこの、年間10トンの折り鶴の焼却費用に1億円、という話は、NPO「おりづる広島」の誕生した2002年当時、西日本新聞や朝日新聞など、複数の新聞でさかんに報じられた内容なのだそうです。

当時広島市では、平和記念公園に集まって来る折り鶴をどのように扱って行くべきか、広く市民からのアイデアを募集していました。船田理事長は、新聞などで前述の話を目にし、何かお役に立てることはないだろうかと考えて、折り鶴を再生紙として加工し、障害者施設に作業を委託して、葉書きや色紙などを作るプロジェクト「おりづる広島」を立ち上げたということです。

「その、報道記事というのは、まさか保存されていたりしないですよね?」

おそるおそる聞いてみると、船田理事長は、「ありますよ」とまさかの即答。あるって、14年前の新聞記事がですか?

「もちろんですとも。すべてファイルして保管してあります。よかったら、メールですぐにでもお送りしますよ」

「えええ・・・ありがとうございます」

はい。拍子抜けするほどあっさりと、新聞記事は送られて来ました。船田理事長、貴重な資料をありがとうございます。1枚目は2002年8月18日付の中国 新聞。2枚目の方は日付がありませんが、「朝日新聞」とのファイル名がついており、内容から考えておそらく中国新聞と同時期のものと思われます。(この他にもたくさんの切り抜きが送られて来たのですが、今回の記事には関係がなかったので省きました。)

chugoku-20010818

asahi-200108

該当箇所と思われるのは、以下です。

中国新聞2001.8.18(赤2)

秋葉市長は昨年、各界代表による保存・活用について意見を聞く会で永久保存論を述べた。「膨大な量の折りづるを見るのは感動的だ。世界中からこれだけの平和を願っている物理的な量を示すことがヒロシマの義務だ」
趣旨は理解できる。が、技術面、スペース、財政負担など制約は多い。市の試算では、通常三十年程度で劣化する折り紙を脱酸処理すれば百年間は保存できる。だが全面民間委託で年に一億円、市がやれば四-五千万円程度かかるという。十年後には千二百立方メートルの場所を要する。保存館の建設、維持管理などを加えれば膨大な出費だ。市長は、経費の工面や場所の確保は可能などと説明する。しかし「被爆資料に比べ現物保存の意味は薄い」「同じ税金を使うなら他の平和対策を」などと、慎重論も多い。

(2002年8月18日, 中国新聞)

同じ記事の中に、確かに「年四回焼却」との記述はあります。しかし、残念ながら記事の中で説明されている、「一億円」というのは、年四回の償却処分の費用ではなく、百年間保存するための脱酸処理を、民間業者に委託した場合の費用のようです。

他に焼却処分費用に関する記述は見られないので、どうやら「おりづる広島」の船田理事長が、こういった記事を複数ご覧になるうちに、どこかで情報を混同されてしまったのではないか、というのが、現時点での私の考えです。

最初にこの件を指摘して下さった、小鳥遊(たかなし)さんのブログ「顧歩日記」- 広島市は千羽鶴の処分に年間1億円をかけて「いない」でも引き続き検証が行われ、2000年の広島市議会議事録をもとに、この「1億円」という数字は民間業者に委託した場合の脱酸処理費のことであろうと推察されているようです。

なお、広島市では秋葉市長時代に折り鶴の「全羽保存」が試みられ、2002年から2011年までの9年間に、なんと約11万5,560束(約1億1,556万羽)、合計98.2トンが蓄積されました。秋葉市長が引退された後、2014年からは「折り鶴に託された思いを昇華させるための取組の推進委員会」の最終報告を受けて、希望する市民団体などに譲渡して再利用をして行くなど、さまざまな取り組みが行われているようです。

広島市-折り鶴に託された思いを昇華させるための取組

また、過去の広島市民球場跡地の利用構想の中でも、国内外から寄せられた折り鶴を展示・保存する「折り鶴ホール」の建設が検討されていたようですが、同地域の最新の計画からは姿を消しているようです。

この件については、また何か新しい情報が見つかりましたら、随時追記して行きたいと思います。