コンテンツとしての大川小問題

数日前のことになりますが、「世界のニュース・トトメス5世」と題するブログの中に、恐ろしいタイトルの記事が掲載されました。

タイトルは、「あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争」。東日本大震災で、全校児童78名中74名、校内にいた教職員11人中10名が命を落とすという前代未聞の悲劇に見舞われた大川小学校の、震災当日の出来事を扱った内容です。

参考のため、一部をご紹介しておきます。

広報車を運転した一人は少なくとも2回、大川小学校の前まで行って避難を呼びかけ、2回目には車を降りて教師らを説得しようとしたが、教師らは耳を傾けなかったという。

生徒を校庭に座らせたまま大川小学校の教員11名は2派に分裂して避難派と待機派に別れ、果てしない論争を繰り返していた。

大川小学校の100mほど裏には裏山と呼んでいた高台があり、そこに上って避難するべきだという意見が出された。

だが教師の一人と”自治会”あるいは保護者の一人が「山に登って生徒が転んで怪我をしたら、誰が責任を取るんだ」と強硬に反対して責任論を展開した。

このとき現場にいた教頭は最初裏山への避難に同意していたとされるが、強硬派を説得できずに議論を続けた。

ある子供は避難を呼びかける町内放送が聞こえていて、広報車が怒鳴っているのも何度も聞こえたので、数人の児童が裏山に駆け出して、一旦は避難したと証言した。

だが反対派の教師達は山の上まで子供たちを追いかけて引きずり下ろし、全員を校庭に集めて怒鳴りつけていた。

ある生徒は「ここに居たらみんなしぬんだよ!何で先生は分からないの」と泣きじゃくり、ほとんどの生徒が泣きながら怯えていたと証言しました
(略)
近所の人たちは皆裏山に上って助かったが、生徒らを裏山に上らせるよう提案しても、ことごとく教師に撥ね付けられたそうです。

「世界のニュース・トトメス5世」「あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争」

ご存知の通り、石巻市立大川小学校の悲劇については、一部の児童のご遺族たちが、石巻市と宮城県を相手取って損害賠償請求の民事訴訟を起こしており、去る10月26日に仙台地方裁判所から一審の判決が下されたばかりです。判決の中で、保護者側の主張を一部認め、14億円もの賠償金支払いが認められた、というニュースの直後に、災害当日の教師たちの言動がいかに横暴だったか、いかに子供たちが不条理な扱いによって死に追いやられたかを綴ったこのブログ記事は、大きな反響を呼びました。

特に、一度は裏山へ逃げた子供たちが、先生たちの手によって引きずり下ろされ、「ここにいたらみんな死ぬんだよ!」と泣きながら訴えていたというエピソードは、背筋が凍るようなショッキングな内容です。記事はたちまちSNSを通じて拡散され、これまで大川小について特に関心を持たなかった人々の間に、急速に広まって行きました。

「関心を持たなかった人々」と書いたのは、これまでこの事件に多少なりとも関心を持っていた人々の多くは、記事のタイトルを見ただけで、すぐに「おかしい」と気づいたからです。山に逃げた子供たちを教師らが引きずり下ろしたなどというエピソードは、これまでこの事件に関心を持って来た人々の誰一人として、耳にしたことのない話でした。この判決の要旨、ならびに大川小学校事故検証委員会による検証報告書、そしてこの事件を取材した池上正樹・加藤順子共著「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」(青志社刊, 2012年10月)、この本の元となったダイヤモンドオンラインの記事「大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~」、あるいはこの事件を扱った新聞各社のオンライン記事のどこにも、そんな話は書かれていません。

書かれたことがなかった=事実ではない、と証明するものではありませんが、本当にそんな証言があったのなら、これまで主に被害児童の遺族側に肩入れする立場で取材を続けて来たダイヤモンドオンラインや、池上正樹・加藤順子両氏が、一度も記事にしていない、というのは不自然です。

「世界のニュース・トトメス5世」というサイトがどのような人物によって運営されているのかは謎ですが、今回の「あの日大川小学校で何が起きていたか 津波が迫る中で教師達は権力闘争」というエントリの中でも、大川小学校と間違えて大槌町の写真を掲載するなど、お世辞にも現地の事情に通じているわけではなさそうですし、他サイト掲載の写真を二次使用していることから考えて、報道機関の運営ではない、単なるアフィリエイト目当ての個人ブログと考えてよさそうです。こういったサイトでは、より衝撃的な、話題性の高い記事を載せてアクセス数を稼ぐことが重要であり、内容の信ぴょう性などにはほとんど関心がないと考えて良いでしょう。しかしこれほど話題になったわけですから、著者の目論見は成功していると言えます。

残念ながらこの記事が、「子供たちのために怒り、無能な教師たちに正義の鉄拳を下したい」と願う多くの人々の共感を呼んだのもまた事実で、「悪い大人と、しいたげられる子供」という構図は、それほどまでに人々の心を捉えやすい、ヒットコンテンツの黄金律なのでしょう。

実際に、あの日、大川小学校の校庭で何が起こったのか、第三者である私たちが知ることはほぼ不可能です。生き残った先生や、わずか4名の生徒さんたちの記憶も、時間とともに変化して行きます。しかし、「山に逃げた子供たちを、先生たちが追いかけて、山から引きずり下ろした」などという出来事が本当に起きていたなら、震災から今日までの間に必ず漏れ伝わって来たと思いますし、ずっと黙って隠し通して来た人物がついに重い口を開いたのだとしても、それを告げる相手は「世界のニュース・トトメス5世」の著者ではないはずです。

人々はわかりやすい悪役を欲しがります。正義を振りかざして糾弾するには、そういった相手が必要だからです。大人たちが保身や権力のために醜く争い、その結果、いたいけな子供たちが命を奪われたと考えれば、正義を主張し、口汚く批判することが出来ます。それは苦しさを胸に抱え込んだまま押し黙るよりは、爽快感を伴うものでしょう。つまり人々は、震災でも有数の悲劇である大川小の被害を材料にして、自分たちのストレスを発散しているのです。

これがつまり、災害をコンテンツとして消費するということです。見ず知らずの人々の身の上に実際に起きた悲劇を単純化し、悲しく、腹立たしい物語として再構築する。その上で、自分は正義の味方となり、悪役を批判することで、人々の鬱憤は晴らされます。裁判に勝利すれば、勝利の快感に酔いしれることもできるでしょう。しかし災害で子供さんやお身内の方を亡くされた当事者の皆さんには、快感などありません。

コンテンツとして眺めている限り、私たちはわかりやすい悪役を欲しがり、自分たちに勝利の快感をもたらしてくれる物語を欲します。たとえば「大川小学校の先生方が、裏山という誰が見ても安全な場所に子供たちを連れて行こうとせず、権力争いなどという愚行に時間を費やした挙句、自分たちも命を落とした」という物語は、人々に爽快感さえ与えてくれるはずです。「子供たちを助けようと必死で努力した先生方が、力及ばずに子供たちもろとも命を落としてしまった」という辛い物語は、誰ひとり爽快にはしてくれません。

私たちは誰しも、心のどこかで勧善懲悪主義のヒーロー物語を欲しているのかも知れません。それはもしかしたら、あまりにも辛い現実から、目を背けるための自衛の一種かも知れません。それによって傷つくのは、どこにも逃げる場所のない、そしてこれからもその記憶を胸に生きて行かなければならない、当事者の皆さんであることを、肝に銘じておく必要があると思います。

何が遺族たちを訴訟に向かわせたのか~大川小津波訴訟~

横断幕を手に仙台地裁に向かう原告団
東日本大震災の被害の中でも、全校児童78名中74名が犠牲となった石巻市立大川小学校の惨事は、多くの人々の心に衝撃を与えるものとなりました。この事件では、犠牲となった児童のうち23名の遺族が、市と県を相手取って損害賠償請求の民事訴訟を起こしていますが、今月26日、仙台地方裁判所は学校側の過失を認め、23名の遺族に合計14億3千万円の支払いを認めました。これに対し、市と県は判決を不服として控訴の方針を固めています。

ここまで読んで戴いて、「おや?」と思われた方もいらっしゃることでしょう。そうです。犠牲になった子供たち74名のうち、訴訟に加わったのはわずか23名の遺族のみ。犠牲者の2/3を超える51名の遺族たちは、マスコミとの接触も断り、じっと口をつぐんでおられるそうです。

訴訟に加わった1/3の遺族の皆さんが、犠牲になった子供たちの顔写真を並べた横断幕に、

「先生の言うことを聞いていたのに!!」

というスローガンを掲げて仙台地裁へと入って行く姿は、全国紙でも報道され、我々に大きな衝撃を与えました。遺族の皆さんは、あの日、子供たちを助けられなかった責任が教職員にあると考え、その責任を問うているのです。大川小の全教職員13人中、当日学校内にいたのは11人。その11人のうち1人を除く10人が、子供たちと一緒に津波の犠牲になりました。遺族の皆さんは、助かった1人を含む教職員11人が、(そのほとんどが亡くなっているにもかかわらず)子供たちを助けられなかった責任を負うべきだと主張しているのです。

ご存知の通り大川小では、「地震(津波)発生時の危機管理マニュアル」によって第1次避難場所は「校庭等」、第2次避難場所は「近隣の空き地・公園等」とあるのみで、具体的な避難先については記述がありませんでした。宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入るとされ、河口から5kmの内陸に位置する大川小学校までは、津波は到達しないと考えられていたのです。このため、大川小学校自体が避難場所として指定されており、実際に地震の後、近所の住民たちは大川小学校めざして避難して来たそうです。池上正樹さん、加藤順子さんによるルポ「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」(青志社刊, 2012年10月)にも、このとき校庭では焚火の用意が始まっていたという記述があり、大人たちは、この場所が避難場所であるという認識で行動していたことが窺われます。

仙台地裁による判決は、石巻市の広報車が津波を知らせた3時30分から、津波到達までの7分間に関して教職員の責任を認めるものでした。しかし、校庭に避難していた教職員たちが津波の危険を認識した3時30分に、あと何分の猶予があるのか、どうやって判断できたでしょう。津波が来るのは10分後かも知れませんが、1分後かも知れません。

11人の教職員だけで、78人の児童を避難させなければならないのです。高学年の児童なら、裏山を駆け上ることも出来たかも知れませんが、低学年の子供たちの中には、地震のショックで泣いている子や、吐いたり、しゃがみ込んでいる子もいたといいます。マニュアルも、訓練もないまま、わずか数分のうちにベストな行動を選択することは、危機管理の専門家でも難しかったのではないでしょうか。

外部の人間として、遺族の皆さんの1人1人が、この訴訟についてどのような考えを持っているかは、想像するしかありません。わかっていることは、同じ大川小学校の遺族の中に、この訴訟に加わらなかった遺族が2/3もいらっしゃるということです。この方々はマスコミに対して口を開いては下さいません。それがすべての答えなのではないかと私は感じます。

もちろん、この悲劇が繰り返されることのないよう、市や県には危機管理マニュアルの策定が求められることは言うまでもありません。しかし、訴訟を起こした一部の遺族にのみ、賠償金が支払われるという結果で本当に良いのでしょうか。そして、子供たちを助けようとして一緒に避難して命を落とされた先生方のご遺族は、この訴訟に加わることはできません。

「先生の言うことを聞いていたのに!!」

亡くなった子供たちは本当にそう思っているのでしょうか。

震災後、「リーディング・カウンセリング(Leading Counseling)」と称して、大川小の遺族の方々にカウンセリングを行ったボランティアがいるそうです。このボランティアが具体的にどのような「Leading(指導)」を行ったのかは、当事者にしかわかりません。このボランティア活動が、地域の連帯を揺るがしたり、遺族の自主性を阻むようなものであったとしたら、大変残念なことだと思います。