東日本大震災の被害の中でも、全校児童78名中74名が犠牲となった石巻市立大川小学校の惨事は、多くの人々の心に衝撃を与えるものとなりました。この事件では、犠牲となった児童のうち23名の遺族が、市と県を相手取って損害賠償請求の民事訴訟を起こしていますが、今月26日、仙台地方裁判所は学校側の過失を認め、23名の遺族に合計14億3千万円の支払いを認めました。これに対し、市と県は判決を不服として控訴の方針を固めています。
ここまで読んで戴いて、「おや?」と思われた方もいらっしゃることでしょう。そうです。犠牲になった子供たち74名のうち、訴訟に加わったのはわずか23名の遺族のみ。犠牲者の2/3を超える51名の遺族たちは、マスコミとの接触も断り、じっと口をつぐんでおられるそうです。
訴訟に加わった1/3の遺族の皆さんが、犠牲になった子供たちの顔写真を並べた横断幕に、
「先生の言うことを聞いていたのに!!」
というスローガンを掲げて仙台地裁へと入って行く姿は、全国紙でも報道され、我々に大きな衝撃を与えました。遺族の皆さんは、あの日、子供たちを助けられなかった責任が教職員にあると考え、その責任を問うているのです。大川小の全教職員13人中、当日学校内にいたのは11人。その11人のうち1人を除く10人が、子供たちと一緒に津波の犠牲になりました。遺族の皆さんは、助かった1人を含む教職員11人が、(そのほとんどが亡くなっているにもかかわらず)子供たちを助けられなかった責任を負うべきだと主張しているのです。
ご存知の通り大川小では、「地震(津波)発生時の危機管理マニュアル」によって第1次避難場所は「校庭等」、第2次避難場所は「近隣の空き地・公園等」とあるのみで、具体的な避難先については記述がありませんでした。宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入るとされ、河口から5kmの内陸に位置する大川小学校までは、津波は到達しないと考えられていたのです。このため、大川小学校自体が避難場所として指定されており、実際に地震の後、近所の住民たちは大川小学校めざして避難して来たそうです。池上正樹さん、加藤順子さんによるルポ「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」(青志社刊, 2012年10月)にも、このとき校庭では焚火の用意が始まっていたという記述があり、大人たちは、この場所が避難場所であるという認識で行動していたことが窺われます。
仙台地裁による判決は、石巻市の広報車が津波を知らせた3時30分から、津波到達までの7分間に関して教職員の責任を認めるものでした。しかし、校庭に避難していた教職員たちが津波の危険を認識した3時30分に、あと何分の猶予があるのか、どうやって判断できたでしょう。津波が来るのは10分後かも知れませんが、1分後かも知れません。
11人の教職員だけで、78人の児童を避難させなければならないのです。高学年の児童なら、裏山を駆け上ることも出来たかも知れませんが、低学年の子供たちの中には、地震のショックで泣いている子や、吐いたり、しゃがみ込んでいる子もいたといいます。マニュアルも、訓練もないまま、わずか数分のうちにベストな行動を選択することは、危機管理の専門家でも難しかったのではないでしょうか。
外部の人間として、遺族の皆さんの1人1人が、この訴訟についてどのような考えを持っているかは、想像するしかありません。わかっていることは、同じ大川小学校の遺族の中に、この訴訟に加わらなかった遺族が2/3もいらっしゃるということです。この方々はマスコミに対して口を開いては下さいません。それがすべての答えなのではないかと私は感じます。
もちろん、この悲劇が繰り返されることのないよう、市や県には危機管理マニュアルの策定が求められることは言うまでもありません。しかし、訴訟を起こした一部の遺族にのみ、賠償金が支払われるという結果で本当に良いのでしょうか。そして、子供たちを助けようとして一緒に避難して命を落とされた先生方のご遺族は、この訴訟に加わることはできません。
「先生の言うことを聞いていたのに!!」
亡くなった子供たちは本当にそう思っているのでしょうか。
震災後、「リーディング・カウンセリング(Leading Counseling)」と称して、大川小の遺族の方々にカウンセリングを行ったボランティアがいるそうです。このボランティアが具体的にどのような「Leading(指導)」を行ったのかは、当事者にしかわかりません。このボランティア活動が、地域の連帯を揺るがしたり、遺族の自主性を阻むようなものであったとしたら、大変残念なことだと思います。